ロシアによるウクライナ侵攻(戦争)について!

 ここ数週間に渡りテレビ、新聞等の記事はロシアによるウクライナへの侵攻(戦争)に関する記事が中心に
なっています。
現時点での我が国における中心的な関心事と言えば、オミクロン感染によるコロナ感染症の発生状況になると
思いますが、何故かウクライナ問題の比重が高まっているようです。
考え方によっては、コロナウイルス禍については、日本だけでなく世界的に見て取りあげるだけの切迫感がな
くなっている、言葉を換えれば良い意味で先が見えてきたということでジャーナリストの世界では記事として
の価値が薄れているということを表しているとも考えられます。
 これまで、私自身としては、ロシアによるウクライナ侵攻について思うところはあったもののコメントを控
えていましたが、今日のテレビの放映を観て、その思いは限界を超えた感があります。
プーチン大統領の考え方とそれに対するロシア国民の対応についてです。
 わが国の今後の政治の在り方においても、参考としなければならない問題だと考えます。

 ロシア国内において情報統制が布かれている状況にあるとは言え、ロシア国民の民主主義に対する感性の脆
弱性が感じられることです。
プーチン大統領が考える民主主義について、国民の問題意識が希薄であるということです。
私が考えるところでは、ロシアの歴史を遡って観る限りにおいて一度として民主主義という政治体制を経験し
たことがないという歴史に根差した悲しさではないでしょうか。
端的に言えば、ロシア国民の歴史は全て専制主義の歴史です。
ロマノフ王朝、レーニンのボルシェビキ革命による共産党一党独裁、スターリン独裁、共産党党書記の個人主
導、ゴルバチョフ書記長時代のソ連邦解体による歴史をたどっているが、その実は共産党一党独裁の延長にあ
ることです。
政治風土は権威主義的レジーム(体制)を脱局していないということだと思います。
プーチン大統領もその延長上に位置する政治指導者であると捉えています。
民主主義の原点である政治的に多様な意見の存在を許さない行為、自分と異なる意見を有する政治家の存在を
認めない強権的な政権運営と政治姿勢です。
これでは、口で民主主義という言葉を使ったとしても何が民主主義といえるのか、はなはだ懐疑的な感慨を持
たざるをえません。
残念ながら、情報コントロールされているとはいえ、ロシア国民は体質的に専制主義に馴染んでいる国民性で
あると視られたとしても致し方ないでしょう。。
また言えることは、今回のウクライナ侵攻はプーチン大統領の政治基盤を確保することを目的に行われている
個人的な動機によることです。
大統領個人の身分を保全することを目的にした侵攻(=戦争)を国民が是認・黙認していることに本質的な問
題があると考えます。
 これらを前提にするならば、ウクライナ戦争は、専制主義と自由民主主義の政治体制の衝突と考えます。
旧ソ連邦の解体に伴い共産主義という専制体制から自由にものを言える社会に移行しこの自由を体得したウ
クライナ国民にとっては、ロシアのプーチン大統領の独裁的な政治運営の下に帰することは耐えがたいこと
でしょう。
 世界的に見るとこの対立構造は、その他にも存在します。
中国、北朝鮮、ベラルーシ等の個人、一党独裁国家との対峙です。
これらは政治体制の違いという明確に分かる形で表れていますので判りやすいのですが、民主主義国家にお
ける事象ではもっと深刻と考えます。
 それ故、今回の侵攻=戦争を教訓にして日本での在り様を考えていくことは重要であると思います。
例えば、我が国についていえば、民主主義であっても一強という言葉で表現される政治事象です。
一党又は個人の政治家に政治的な力が集中するのでは、民主主義という形を借りた専制主義に代わりないで
しょう。
最近の我が国における政治において見られる現象といえるでしょう。
 また、情報発信の問題です。
今回の戦争においては、武器使用による武力攻撃に加えて、情報戦が大きな戦略的意味を持つと言われてい
ます。
ロシアにおける国民を欺くような操作されたデマ情報の発信やウクライナ側における戦況情報のグローバル
的な発信による真実性の訴求戦略です。
この情報発信は、当事者にとって都合の良い形で発信されていると言えるでしょう。
*ウクライナ側の情報発信については、より真実性を訴えるものと認められます。
同様なことは、我が国における為政者の情報発信についても当てはまることです。
為政者にとって都合の良い形での情報発信です。
その取捨選択の判断を可能にする上で、ジャーナリストや報道機関等の存在と自由な取材・情報発信は必須
です。
真の民主主義が実現されているかどうか今一度、わが国の現状について検証してみることが求められると考
えます。
 今回のウクライナ問題を奇禍として、我が国の将来の糧となることを念じます。